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 『17時までには帰るので、』
 

 『夜ご飯は外に食べに行きませんか』
 


 机の上に置かれていた、チラシの裏の走り書き。
 あまり綺麗とは言えないそれを座椅子に座りながら視界に捉えて。

 ……それから、それから―――――。








 「うーさーぎ、おーいし。」

 


 懐かしくて幼い声が鼓膜を揺らす。
 ふわふわと夢見心地な意識が徐々に通常運転に戻ってきて、ぱちぱちと、瞬きをすれば正面に座って絵本を広げている少女の姿。

 「……。」
 「かーのや……あ、若おきたのー?」
 「うん起きた起きたー、………起きてるからストップ、やめて揺らさないで神様ななみ様。」

 目が合うとタタタッと駆け寄ってきた少女は遠慮なしに俺の体を揺すぶって、金に染まった髪の毛を引っ張って。
 その振動は寝起きには随分と堪えるもので。小さな手をやんわりと引っ張り自分の膝の上へと座らせた。


 「俺ずっと寝てた?」

 ちらりと左腕で主張する黒の腕時計を見ればいつの間に電池が切れてしまったのか、静かなもので。
 テーブルの片隅にある置時計を見ながら少女に問いかけた。

 時刻は13時27分を指す。



 「うん、おかーさんおでかけしてからずっとー。」

 少し不服そうな声に寂しがらせてしまったことを知り、これじゃあこの子のママさんに怒られてしまうななんて苦笑いが零れる。

 部屋にはお気に入りの絵本や落書き帳が散らばっていて。きっと、小さいながらに寝ている俺を起こさないように一人で遊んでいたのだろう。
 まだ保育園児だというのに、大学生の俺よりもずっとしっかりしているように思えた。


 「……ななみ、ママさん帰ってくるまで時間あるしちょっと駅の方までデートしようか。」

 確か今の時期の駅前はクリスマス用の飾り付けで賑わっているはず。駅まではさほど距離はないし、ななみの母親が帰宅する17時までには余裕で行って帰って来られるだろう。
 小さなこの子に気を遣わせてしまったお詫びに、気分転換になればと提案すれば少女は目を輝かせて。

 「落ちてる絵本片付けてからな。」そう言って頭を軽く撫で、ななみが部屋を片付けている間に少女のお気に入りの鞄と上着を用意する。

 小さな体にそれらを着せて、小さな手を握って家を出た。
 


 朝は結構冷え込んでいたものだけれど、昼過ぎからは太陽が照っていたおかげで寒さは感じなかった。
 水溜りに積極的に入ろうとするななみを何とか制しながら、あと2週間もすれば年が明けるんだなとぼんやり思う。

 春。大好きだった彼女を追いかけて、必死に勉強して判定ギリギリの大学を受験した。

 夏には、理由(わけ)も分からないまま彼女に別れを告げられて。

 傷を癒せないまま、不摂生でやさぐれた日々をただただ消費していた秋の初め。

 冬を迎えた今、全てを失くした気でいた俺の指先を、小さくて脆い手が強くつよく握っている。


 道端であどけなく笑う少女と出会い、懐かれて付き纏われて。迷子だという少女を家族のもとに送り届けて。

 それが縁となり、時々会って共に過ごすようになってからほんの数か月しか経っていない。


 もう何年も一緒にいる、年の離れた兄妹のようなのに。何だか少しだけ不思議だった。


 駅前のデパートの近くにある陸橋の上を通ると、ななみと出会ったあの日を思い出す。

 



 「若!はーやーく!」

 数十メートル先にデパートが見えた時、不意に繋いでいた手を引っ張られて前のめりになる。
 朝方には凍っていた地面もすっかり融けていたから、転ぶ可能性が低いことが幸いだった。


 「外ではちゃんと“若葉”って呼べって教えたはずなんだけどなあ…。」

 俺を呼ぶ声にそうぼやいてみても、無邪気にはしゃぐ少女の耳に届くはずはなくて。


 生まれつきよろしくない目付きに、大学に入ってから染めた金髪。両親の遺伝か身長は伸びに伸びて180過ぎて。
 そんな男が「若」なんて呼ばれているのだから、まあ、知らない人にはそういう職種の人間なのかと勘違いされてしまうこともしばしば。

 ちらちらと様子を伺ってはサッと素知らぬフリで離れていく周囲の視線には慣れたけれど。


 急かされるままに少しだけ早歩きで駅前の広場に向かえば大きなクリスマスツリーが視界に飛び込んできた。

 いくら陽が落ちるのが早いとはいえまだ夕方とも言えぬ時間。
 煌めくイルミネーションは解りづらくて決してまだ綺麗とは言い難いものだけれど、隣で首が取れるんじゃないかってくらい上を見上げている少女があまりに可愛らしくて。

 イルミネーションよりずっときらきら輝いた表情に、笑みが堪えられなくなって。

 「もっと近くに行ってみる?」って尋ねてみたら「くびつかれたからいかない!」なんてしかめっ面で言うものだから思わず吹き出してしまった。



  それから。

 それから、駅のそばのデパートに入ってぶらぶらとお店を見て回る。

 何かお菓子を買おうかと聞いても「ごはんたべれなくなるからダメ。」と断る、年齢に似合わない程しっかり者のななみが次に足を止めたのはおもちゃ屋さんの前だった。


 「あー!サンタくん!!」

 そして突然声をあげたかと思えば、店頭で左右にゆらゆらと動いているサンタクロースの置物を見て嬉々として駆け寄っていった。
 サンタクロースの動きに合わせて左右に揺れるななみに「サンタさん知ってるの?」と声を掛けると、振り返らないまま言葉だけが返ってくる。

 「うん!せんせーとね、おかーさんがね、いい子にしてたらサンタくんが来てくれるっていってた!」
 「そっか。ななみ良い子にしてるからね、サンタさんに何お願いするの?」

 妹のように可愛がっているこの子に、クリスマスプレゼントを用意してあげたくなって。
 そう尋ねれば少女は動きを止めて嬉しそうな表情を湛えて振り返る。

 「わかば!」

 そうして、大きな声で俺の名前を呼んだ。


 「ん、なに?」
 「あのね、サンタくんにね、若葉をくださいっておねがいするの!」

 それはあまりにも予想外な発言で。
 端から見れば非常に情けない顔をしていたのではないかと思う。

 「……え、」
 「ななみね、若のことすきだからけっこんしたいですっておねがいする。」
 「それは……サンタさんでも無理かなあ…?」

 返答に困ってしまうような台詞に、苦笑いを浮かべてそう呟くとななみの眉がじわじわと下がっていく。

 「………どうして?」
 「んー、俺は物じゃないからなあ。頼まれてもサンタさん困っちゃうと思うよ。」


 俺が声を発する度に、表情はどんどん沈んでいって。ついには瞳が潤み出した。

 

 小さい子の今にも泣いてしまいそうなその顔に、俺は、とことん弱くて。
 ああやばい、どうしよう。なんて考える暇もなく。

 「じゃあさ、」気付けば口を開いていた。


 「サンタさんじゃなくて、俺に頼んでよ」

 きょとんと俺を見上げる少女の目の前にしゃがみ込んで視線を同じにして、優しく頭を撫でる。


 「ななみが大人になって、その時まだ結婚したいなあって思ってくれていたら、俺に言って?」
 「……おとな?」
 「そう、ななみが今よりずっと背が大きくなって、……そうだな、あそこにうさぎのぬいぐるみがあるの見える?」

 店の奥の方の棚に陳列されてる1mは優に超えているだろう大きなぬいぐるみを指差せば小さな頭がこくこくと縦に振られる。

 「あのうさぎさんよりもずっとずーっと大きくなって。それでも俺のことを欲しいと思っていたら、」

 こんなこと、あまり軽率に言うベきことではないかもしれない。

 それでも所詮は口約束だから。
 この子だっていつかは忘れていって、未来では笑い話になっているような、そんな小さな約束だから。


 今はただ、この子のために。

 


 「そしたら俺が、ななみにあげる。」

 小さな言葉を、約束を。ただこの子の笑顔を守るために、重ねていこう。


 


 「……わかった、サンタくんにおねがいするのはやめる。ちがうのにする。」
 

 「そうだね、何をお願いしようか?」

 「あのね、サンタくんにはね、_____が欲しいって。」

 「うん、それはいいね。家に帰ったら――――。」









 「…………ん、」
 「ごめん、起こした?」


 柔らかな、耳に馴染んだ声がする。
 何だか懐かしくて、でも夢の中のあの子よりもずっとずっと大人びた、声。

 ぼやぼやと揺らぐ意識の中。今にもまた閉じてしまいそうな双眼をこじ開けて、ぱちぱちと、瞬いてみればどこか申し訳なさそうに覗き込んでいる女性の姿。

 


 「……眠り浅かったから、だいじょーぶ。」

 ふあ、と欠伸をひとつ零して。

 いつの間に寝てたんだろう。いや、その前に一体いつ帰ってきたっけ。
 ああ全然、頭が回らない。

 たしか、確か今日はようやく仕事が一段落して。
 久しぶりに夜は一緒に過ごせそうだって彼女に連絡し、て…。

 


 「……ごめん、ご飯食べに行こうって言ってたのに。」

 パッと仰ぎ見たデジタルの置時計が示す時間は約束の17時どころか、日付すら追い越していて。
 台所に見える後ろ姿に声を掛けると、彼女は何も言わずに傍にやって来た。穏やかに笑いながら。

 彼女はコトリと軽快な音とともに湯気の立つマグカップをふたつ、テーブルに並べた。

 「こっちこそ、仕事終わりで疲れてるはずなのに外食なんて気が利かなくてごめんね?」

 マグカップを手の平で包みながら、気遣うような彼女の声に何と返せばいいのか考えるも寝起きの頭では難しく。
 何か浮かぶよりも先に「笑ってたけど、夢でも見てた?」彼女がそう言って、その時のことを思い出しているのだろう、クスリと微笑んだ。


 「……うん、懐かしかった。」
 「どんな夢?」
 「ななみちゃんがこーんなに小さかった頃の夢。」

 言いながら両手で小さな円を描いてみせれば「何それ。」なんて君が笑う。


 かつての少女に夢で逢ったからだろうか、何だかその笑みが無性に愛しくなって。

 「……どうしたの急に。」

 テーブル越しに彼女の手首を掴んで自分の頬へと引き寄せれば、少しだけ戸惑ったような声。
 「どうもしてないよ。」なんて平然を装った口調をしつつも、緩む表情を隠す気はさらさら無かった。


 

 ドラマや芸能ニュースでよく見るような年の差カップルを、ロリコンだなんて思いながら眺めていたのは何年前のことだったか。今やもう言えやしない。
 

 



 「ねえ、15年前に約束したこと、覚えてる?」
 

 『それでも俺のことを欲しいと思っていたら、』


 もしも君があの日を覚えていなくたってよかった。
 あまりにも幼かった君が全部を忘れていたって、俺は忘れない。

 あの日小さな君と交わした約束は、俺にとっては小さい子のお遊びに乗っかるように軽くて。
 冗談のように小さな小指を絡めたけれど。

 今では冗談なんて笑えないくらいに愛しい想い出となって。

 


 彼女のシンプルな部屋には何だか不釣り合いな、少しボロボロの大きなうさぎのぬいぐるみを見るたびに思い出すから。

 うさぎに早く追いついて見せようと、背伸びし続けた少女の姿を。その成長を。
 “小さな女の子”だった彼女が、少しずつ、大人に変わっていくそのすべてを。


 でも、もしも君が覚えていたなら。

 小さな小指で交わしたちっぽけな口約束を、覚えていたならば――――…。






 「さあ、どうだと思う?」

  執筆:2015.12.03

  編集:2020.09.01

うさぎ追いし、君の

いつの間にか君は追いついて。
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