赤茶けた世界と、セピア色にループする日常。
そしてモノトーンな私の感情。
「私は不幸だ。」
そんな霞んだような毎日から私を引っ張り出してくれたのは彼だった。と。
今でもずっと信じている。
「今日はいつもより早いんだね。」
午後、2時25分。
私は学校を抜け出して行き慣れた公園に足を運んでいた。
そこには既に彼が居る。
「うん。“アノヒト”の機嫌が悪いから、放課後はすぐ帰らなきゃいけなくて。」
だから、急な呼び出しでごめんね。
申し訳なさから声を落とすと、大きな掌に髪をくしゃっと乱される。
「君は悪くないでしょ。」
そう言って彼は私の首元に、湿布の上から優しく触れた。
彼の言動はいつだって温かくて、私のつらさを和らげる。
「家族は、……相変わらずかな。」
柔らかかった彼の微笑みは、その言葉とともに神妙な顔つきに変わった。
苦しげに細められた瞳に思わず胸が締め付けられる。
私は静かに頷いた。
一人っ子の私が、家族と言えるのは両親だけ。
機嫌の波が激しく、しょっちゅう暴力を振るってくる父親。
家族に対して無関心で、夜遅くまで遊び惚けている母親。
2人とも外面だけは良いから、誰も素敵な一家だと信じて疑わない。
幸せとは程遠い内情は、きっと、誰も信じてくれない。
基本的に家にいることが極端に少ない母親の代わりに、父の鬱憤はすべて私にぶつけられていた。
顔を思いっきり打たれた日は、痣が目立たなくなるまで学校を休んだ。
見えない所を殴られた日は、厚着で誤魔化し1日を過ごした。
“手を出された”日には、汚いと悟られないよう笑顔にすべてを隠した。
だって、気持ち悪いじゃないか。
義理でもない、血の繋がったヒトに、されるがまま。
そんなヒトが近くに居ることも、同じ血が流れていることも。
全部全部、気持ち悪かった。
キモチワルイ
そんな思いに身も心も焦げついて、潰れそうになっていた時。
『そこで何してるの?』
私は初めて“味方”に出会ったんだ。
あれは確か、春も終わりに近づいた頃のこと。
彼に出会ってから、2か月が経とうとしている。
あの日から彼とは、不定期に連絡を取っては他愛ない話から相談までお互いに口にするような関係になった。
家の事情は何度目かの逢瀬の時に打ち明けていたため、彼は唯一の理解者だった。
「……そろそろ、行かなくちゃ。」
いくら彼との時間が楽しくても、“オワリ”は呆気なく訪れる。
公園内の時計は午後3時半を示していた。
何度彼に会えても、変わらずこの瞬間が名残惜しくて。
それと同時に帰るのが怖くて。
「……うん。」
「ごめんね、いつも勝手に呼んで一方的に帰って。」
「いや、それは、」
言葉を紡ごうとしていた彼の声を遮るように、
「おーい。」
ふと耳に届いたのは軽快な声。
けれどそれは私の心を重くする要因と同じ、声であり。
「……おとうさん、」
振り向けば片手を軽く上げた父がこちらに向かって歩を進めていた。
場所が外だったから“普通”の親子を装いたくて、とっさに表情をつくる。
けれど、今思えば周りには事情を知っている彼しかいなかったからそれは無意味だったのかもしれない。
「こんなところにいたのか。」
人当たりのよさそうな表情。
眼鏡越しに柔らかく細められた目が私を、そして彼を捉えた。
「こちらの方は?」
「……友だちのお兄さん。偶然会って、つい話し込んでしまったの。」
「はじめまして。」
“オトウサン”に負けないくらいに完璧な、人の好さを感じる笑みを彼は浮かべた。
「はじめまして、娘がお世話になっています。」
にこやかに微笑んで挨拶をする“父”の、この笑顔がホンモノだったら。
何度そう願っただろう。
「……遅くなってごめんね、お父さん。帰りましょう」
その言葉に“オトウサン”が口角を上げたのが見えて。
背中に走った悪寒を誤魔化すように父の腕を軽く掴み、彼に「おにーさんさよなら」と言葉とともに笑みを添えた。
「じゃあね、またいつか。」
この時の彼が何を考えていたのか、私は知らない。
けれど、強い何かを孕んでいるような彼の瞳のことは今でも鮮明に覚えているのだ。
そして、その“何か”を連れて運命の日は近づいてくる。
その日も何も変わらない1日だった。
朝、ご飯の用意をしていたら寝起きの悪い“オトウサン”に蹴られる。
学校では何も知らない“トモダチ”と当たり障りない高校生活を送る。
放課後、帰りたくない気持ちを抑えて“遅れない”ように走って帰る。
家に帰ると、
「おかえり。」
仕事がない日はいつも寝ているか酒に浸っているか、遊びに出ている“オトウサン”が玄関で私を出迎えた。
それは地獄の合図に他ならない。
「服を脱ぎなさい。」
言う通りに服を脱げばベッドの上に髪が散らばり、天井に向かう視界を遮るのは上っ面だけの優しげな顔。
「お前は可愛いね。」
機嫌を損ねないよう浮かべた薄っぺらな表情は、目の前の人物を欺くには十分で。
逆らっていたのは最初だけ。
まだ子供でしかない私には、逃げる手段も勇気も財力もない。
だから、自分自身を守るために。
穢れきった声を漏らして、目の前の人物を満足させるための“お人形”と化す。
『そこで何してるの?』
頭の奥では彼の言葉を反芻しながら。
『女の子がこんな時間にうろついたら駄目だってば。』
いくら汚れても穢されても、私は。
彼がくれる言葉を、その存在を。
『コワイならそばに居るから。』
『だから笑って?』
私は手離すことが出来なかった。
深夜12時を回る頃、家の中は酷く静かで、私一人しか存在していないような心地がした。
そんな時だった。
携帯が控えめな振動を伝えてきたのは。
それは“彼”からのメールの知らせで、私はひっそりと家を抜け出した。
落ち合った先は“いつもの”場所。
青々とした緑の茂る、夏の夜の公園。
「どうしたの急に?」
私の問いかけに彼は応えずふわりと笑んだ。
その様子は普段とどこか違うようで、でも確かにいつもの彼だった。
疑わしいほどに“いつも通り”の彼だった。
「ねえ、」
「明日学校に行ったら、家には帰らなくていいよ。」
「………え?」
言葉の意味が呑み込めない。
「家には戻らずにオトモダチの家に泊まるといい。」
「……そんなのアノヒトが許してくれない。無断でしたら殺される。」
一瞬、たった一瞬だけれどソレが頭を過ぎって、背筋がひんやりとした空気に侵されていく。
それを察したかのように彼は私に手を伸ばす。
でも、決して触れてはくれない。
「大丈夫、僕の方から“ソノヒト”には言っておくから。」
触れそうで触れないこの距離は、温もりを教えてはくれない。
「大丈夫だよ。」
空気の蒸し暑さに反して冷え切った身体と対称的に、彼の言葉はひどく温かかった。
《 ―――――次のニュースです。》
私は彼に言われた通り、その日家には帰らなかった。
《 昨夜未明、△△市の西区にある住宅街で――――――。》
そして二度と、“あの家”に帰ることはなかった。
「今日から貴女はここに住むのよ。」
(叔母さん、泣かないで。)
「ごめんねえ、あなたが一番……つらいはずなのに……。」
つらくなんてないよ。
「まさかあそこの夫婦が……。」
「確か娘さんはまだ高校生でしょう?誰が引き取るの?」
「とてもいい人たちだったのにねえ……。」
あの家にイイヒトなんて居なかったよ。
《 この事件の犯人は、現場近くで目撃されており――――――。》
公園で2人落ち合ったあの夜が、彼との最後の逢瀬になった。
出逢った日から、別れの夜まで。
決して時間は多くなかったけれど、私たちは確かに想い合った。
貴方は私が生涯で一番好きな人。
これから先も、どんなに素敵な人と恋に落ちても。
『 ヒ ト ゴ ロ シ 』
たとえ二度と会えないとしても。
執筆:2014.02.04
編集:2020.09.01