それは突然のこと。
少年は奇病にかかった。
爪先が、カツンと音を立てた。
「ん?」
不自然な音と、違和の残る感覚に足を止める。
いま、僕が歩いていたのはフローリングの上だった。
それも裸足で。普通に考えたらそんな音が鳴るはずはなく。
恐る恐る足元を見るも、異変は無ければ何か落ちてすらいない。
「気の所為か。」
小さくそう呟いて、近くにあったソファーに腰を下ろした。
この時に、気付くべきだった。
気付いたところで何も変わりやしないのにね。
カツ カツ
フローリングの床の上に、無機質な音が鳴り響く。
カツ カツッ
自分の足が床の上を歩む度に、心の臓が叩かれるように軋む。
慣れない音に募っていくのは苦しさばかり。
――――――カツン
あの日の違和はとうとう実感を伴って、現実を突きつける。
最初に音を耳にした日からは、1週間が経とうとしていた。
「硝子になっていく身体、なんて。」
カツン カツ
あの日から少しずつ、この身体は硝子に為り始めていた。
日を追うごとに、姿を変えていく身体。
左の爪先から始まった奇妙な変化は、次第に上へ上へと。
原因はわからない。
夢だと思いたくて、奇怪な現状から目を逸らしたくて。
医者にも行くことが出来なかった。
まあ行ったところで治ることはないのだろう。
そう思うと、余計に怖くなって。
カツン
壁に立てかけられた大きな姿見。
その前で足を止めて、全身をゆっくりと眺めた。
「………。」
左半身は、太腿の半ばまで。硝子になって固まった。
服の裾から覗く左足は、色素を失い透明で。
鏡越しに見ると、まるで片足だけ存在していないよう。
その不気味な違和感に自嘲の笑みを零せば、「……なんてタイミング。」真紅の髪紐が切れて、床に落ちた。
緩く縛った髪の毛が支えを無くしてゆらゆら揺れる。
男のくせにすっかり伸びきったヴェローナの色をした髪の毛。
生まれつきの、母親譲り“らしい”髪質と色。
とうの昔に死んだという母は、どんな人だったんだろうか。
彼女に、僕は似ているのだろうか。
ぼんくらと成り下がった俺の頭では考えることすら億劫で。
ここ最近身体に起きた変化は、硝子と化すことだけではなかった。
記憶全体に靄がかかるようにぼやけ始めて。
思い出せないものが多くなった。
大切なものが、何かも。
わからなくなってしまった。
鏡に映った青い瞳が、揺れる。
「髪、切ろうかな。」
解らない記憶を辿るのも怖くて。
逃避ばかりを選択する日々は、滑稽なものでしかなかった。
硝子に為り始めて1週間と少しが経った頃、家を出て旅を始めた。
家で一人じっとしたまま、そうして朽ちるのは嫌だったから。
辛うじてでも動ける間はちゃんと“人”で居たかったから。
そして1か月が経とうした頃には、人としての身体は姿を潜め出した。
硝子化は左半身だけには収まらず、右側にも浸食が進んで歩くことも手を動かすことすら出来ない。
体を揺らせば靴を擦るように動けるものの、倒れることが怖くて動けない。
一度倒れてみれば、ジ・エンド。
割れて砕けて再起不能になってしまうような。
そんな身体だった。
おなかはいつしか減らなくなった。
どうやら俺は「空腹」という感覚も忘れたらしい。
胃も腸も肝臓も、他の臓器も。
心臓の辺りだってとうに硝子化したはずなのに、どうして生きているのか。
奇怪なこの現象について考えることは放棄した。
ただただ道の端に立ち尽くして、透過する身体を見るだけの日々。
ツマラナかった。
そんな、ある日のこと。
「こんにちは。」
やることもなく暇な僕は一日の大半を眠って過ごしていた。
この日も例に漏れず眠りに耽っていたものの、昼時特有の騒音が耳に入って目を覚ます。
真っ暗な視界に光を取り入れようと瞼をゆるりと上げると、
「こんにちは、おにーちゃん。」
目の前には小さな男の子が立っていた。
「……こんにちは。」無邪気そうな坊やにそう返すと、彼は立ち尽くす僕に問いかける。
「おにーちゃんいつもここに居るね。」
「……。」
「寒くないの?」
季節はもう秋の終盤に差し掛かっていた。
「……割と、平気かな。」
「ふーん?」
硝子と化した部位に感覚は残らない。
辛うじてまだ残っている“自分の身体”だけが、内外部の刺激を拾い集める。
そこまで寒くない。でも悲鳴を上げそうな自分もいる。
この感覚にも慣れてしまった。
坊やは俺の顔から目線を外すと、ある一点を見て首を傾げた。
「ねえ、おにーちゃん。」
「ん?」
「なんでおにーちゃんの手、トウメイなの?」
透明。とうめい。
俺の左手は服によって隠れているが、右手はぶらりと垂れ下がった状態で剥き出しになったまま硝子になった。
なんで、か。
まあ聞かれるだろうとは思っていた。
事実、このことについて触れられるのは初めてではない。
皆が皆、硝子の部分を見ては怪しんで不思議がって訝しんで訊いてくる。
もう、何度同じ答えで誤魔化してきたのだろう。
「……これは硝子製の義手なんだ。」
「ぎしゅ?おにーちゃんケガしちゃったの?」
「うん、……少し前にね。」
義手、は便利な言葉だった。
そう言えば大抵深い事情は聞かれないし、人々は同情の眼差しで俺を見てくるだけ。
深入りを望む輩なんていなかった。
坊やは少しの沈黙の後、俺を見上げて口を開く。
「ね、さわってもい?」
若干舌っ足らずな物言いで、目を輝かせた目の前の子。
「いいよ。」と返せばそろそろと、指先に触れてきた。
「……つめたい。」
「硝子だから、ね。」
「そっか、……なんだかかっこいいね。」
「かっこいい?」
坊やの口から出たのは思いもよらない言葉。
だって今まで不気味に見られることはあっても、そんなことを言う人はいなかったのだから。
思わず坊やの言葉を反芻する。
と、坊やは笑って言った。
「うん、だってヒーローみたい!かっこいいよ!」
ああ、なんだ。そんなことか。
坊やの言葉は年相応で、短絡的。
何処がヒーローっぽいのかなんてさっぱりだけど。
だけど。
「初めて、言われたよ。」
その言葉は例えようもないくらい温かくて。
満面の笑みで歯をニカッと見せるこの子に、硝子に為り始めてから断ち始めた人との関わりを感じたのかもしれない。
泣いてしまいそうな心地だった。
陽はいつの間にか沈みかけている。
「じゃーね、おにーちゃん!またね!」
「うん、じゃあね」
しばらく他愛のないことを話した後、坊やは俺に手を振ると元気に走り去って行った。
笑って言葉を返したものの、振り返すことのできる手が無いことが、悔しくて。
“またね”の一言は言えなかった。
俺には、“また”を信じる時間なんてないのだから。
この季節の夜風は“普通の”肌には中々堪える。
顔から伝わる冷気に眉を潜めていた時、
「もう時間はない、か。」
わずかに感覚の残っていたはずの右肩から、寒さが消えていることに気付いて。
そっと目を閉じて、夕暮れと夜の境界線を世界から消した。
今日はいい日だ。
久しぶりに、ツマラナクない一日を過ごせた気がする。
動けなくても食べられなくても、話すことはできる。
それは紛うことなく、あの子のおかげだった。
口は動いても話してくれる相手が“硝子の”俺にはいなかったのだから。
残念ながら堕落してしまった俺の思考力では、すでに彼の顔を思い出すことはできないけれど。
……あの坊やも、きっと俺のことを忘れてしまうのだろう。
でも、それでもいい。
「またね」の言葉は忘れてしまえばいい。
思い出されてしまえば、つらいだけだから。
何で硝子に為ったのか。
そんな考えても仕方のないことばかり、頭を埋め尽くされてしまうだろう。
最後の最期まで、そんな想いを抱えたくはなかった。
そっと、目を開けて瞬きを一つ。
空は濃紺を浮かべて星を遊ばせていた。
このまま死んでしまうなら、星になりたい。
こんな訳の分からない世界を、もっと見つめていたかった。
滲む視界を隠すように再度瞼を下ろす。
頬からは零れ落ちる滴の感覚は伝わらない。
もう目を開けることもないだろう。
もう、俺に朝は来ないのだ。
意識が飛ぶ寸前、この1か月の記憶が駆け巡り。
抑えきれないほどの感情が、波打った。
最後の最期の、本当に最後。
頭に浮かんだのは、
『おにーちゃん!』
誰かも解らない見知らぬ坊やの顔だった。
爪先から少年を蝕んだ病魔は、行く当てを無くして消え去った。
彼はもう、動かない。
髪の毛一本に至るまで。
透き通るような硝子の塊が、少年の姿を象(かたど)って。
ただそこに、存在していた。
“硝子に為る前”の。
彼のことを思い出せる人は、もう、何処にも居ない。
少年は奇病にかかった。
ただ、それだけのこと。
執筆:2014.05.25
編集:2020.09.01