1日の疲れと時間帯特有の眠気が相俟って、うつらうつらし始めた23時18分。
瞼を下ろせばそう掛からずに飛んでいきそうな意識の中、欠伸はもう何回目だろう。
今日は7月7日、いわゆる“七夕”と呼ばれる日。
年に1度、“織姫”と“彦星”の逢瀬が許されていると云う日。
そんな一見ロマンティックな言い伝えがあったところで、私には関係ない。
一介の社会人である私は、その仕事柄、この時期というのは忙しいの一言に尽きる。
何故なら、七夕という日に乗じたフェアやイベントの準備に追われることになるから。
まあ忙しいと言っても、クリスマスやバレンタインなどと比べたら生きてる心地がするだけマシと言える。
高卒で社会の荒波に飛び出てから、たったの3年。
一度だって星に願う暇すらなかった。
忙しいながらも平凡な日々では、特別願いたいことも思い付かなかった訳だけれども。
昔から「無欲な子だ」って、両親によく言われていたことをふと思い出す。
そんなこと、無いって云うのに。
今日の空は雲がかかっていて、天の川を仰ぐことはできない。
ロマンをも金銭的に換算するようなこんな世の中じゃ、七夕なんて只の金蔓(かねづる)。
年に1度だけの逢瀬とはいえ、織姫も彦星も快く会えたもんではないだろう。
そんな、見知らぬ多くのヒトの欲と願いに塗れた現代の。
星も月も覆い隠してしまう程に曇り渡った、そんな日に。
彦星と織姫は、今どうしてるんだろうなんて。
普段なら考えもしない“空想”に想いを馳せてしまうのは、疲労と寝不足によるものか。
それとも、
「俺らって“織姫と彦星”みたいだと思わない?」
あの男の所為なんだろうか、なんて。
ああ、それにしても今日は疲れた。
一人暮らしに適した広くも狭くもない部屋。テーブルの上の缶チューハイ。
無造作に置いた仕事鞄と脱ぎ捨てた上着。スーツは既に皺を伸ばしてクローゼットの中。
風呂上がりで乾ききらない髪に、最近買ったばかりの甚平を寝間着にして。
ようやく1日が終わった、という解放感に浸りながらも無意識に溜め息が零れるのを感じた。
結露してアセのかいた缶に手を伸ばして、そろそろとプルタブに指を引っ掛ける。
プシュッという景気の良い音は、清涼感を呼び込むようで心地いい。
それを一気に呷ろうとして口元に缶を寄せた、その時。
「1年に一度だけ、なんて儚い約束だけどさ。」
「その分幸せって感じられると思うんだよね。」
唇にひんやりとした缶と冷気が触れた時、頭にちらついた顔に思わず手が止まって。
「……。」
ああ、なんか飲む気分じゃないな。
冷たいそれをテーブルの上に置き直して、息を吐きながらそっと後ろに倒れ込んだ。
ラグの無いフローリングの床は固くて後頭部が少し痛い。
天井を仰ぎ見る。
「天の川は………みえ、ない。」
雲に覆われた空を思い出して、ぽつりと零れた言葉。
天井から直接視界に飛び込んでくる人工的な光が眩しくて、腕で目元を隠した。
ヒトリの空間は、酷く静か。
網戸にした窓からは、花火の音とはしゃぐ声が入り込む。
すぐ傍の公園で多様な花火に興じている高校生ぐらいの少年少女。
帰り道で見かけた姿が目蓋の裏に滲んだ。
わずかに。
部屋の中に花火の香りが漂って、鼻腔をほんのり刺激するようなそれを吸い込んだ。
―――――…そんな時、だった。
《 着信中 》
弾かれるように鳴り出した電子音に一瞬だけ呼吸ができなくなった気がして。
確認しなくても解る、電話の主はきっと。
「……もしもし。」
私はそっと【通話】ボタンを押した。
眠気は何処かに、消えていった。
23時42分。
風を切って街を駆ける。
中途半端にかいた汗が、風に当てられ体を冷やしていく。
夏とはいえ容赦を知らない夜特有の冷気は、じわり、鋭さを帯びて肌を刺す。
だけど、不思議と寒さは気にならなくて。
それを考える暇さえ惜しくて、今はただ一心不乱に足を動かすので精一杯だった。
『俺は、……彦星じゃなかったみたい。』
電話をかけてきた彼の第一声。
自嘲染みた渇いた笑みが、鼓膜を揺らす。
少し、酔っているのだろうか。
普段の彼には珍しい、拙い喋り方と弱弱しい声が私の心を揺さぶる。
「……どういうこと?」
“ 俺は彦星じゃない ”
その言葉が差す意味は、ひとつしかなかった。
それでも薄っすら見えてしまった真相を、知らないフリして聞き返してしまうのは私の弱さ故だろう。
彼には、恋人がいた。
高校1年の終わり、春の香りがわずかに漂い出した3月に。
彼は1学年上の先輩と付き合い始めた。
元々は部活の先輩と後輩だった2人。
家の方向が同じで、帰り道を共にしながら色々な話をする内に意気投合して。
2人の交際は、先輩が県外に就職したため中々会うことができなくても。
無事高校を卒業して彼も社会人となり、お互いに多忙で年に数回しか会えなくなっても。
それでも、2人の関係は続いていた。
彼には、愛しの織姫さまがいる。
「遠くに居ても、触れ合えなくても。声を聴くと、お互いに寄り添っているのがわかるんだ」
会えない間も心を通わせ続けて、運命を信じた、相手が。
それなのに、彼の言葉は。
否定と嘲笑を乗せて発せられた彼の声には、哀しみがこびり付いていた。
“ もしかして ”
彼の心情に対する不安と、浅ましい期待が脳をちらつく。
『……俺、さ。』
気が付けば、近所の公園から響いていた若者たちの声は聴こえなくなっていて。
気が付けば、わずかに鼻をくすぐるような花火の火薬の匂いは消えていて。
気が付けば、私は、
『フラれ、ちゃった。』
スマートフォン片手に家を飛び出していた。
「俺らって“織姫と彦星”みたいだと思わない?」
かつて、自身と彼女のことをそう称してみせた彼の表情(かお)を思い出した。
視界が滲む。喉が熱い。
込み上げてくる“何か”をどうにか押し殺して、走り続ける。
きっと今の私の顔は、ぐちゃぐちゃで情けない。
彼の、彼にとっての織姫だった彼女に言いたいことがある。
彼は頑張っていたんだと。
本当はとても寂しかった。休みを取ってでも会いに行きたかったけれど、いきなり押しかけて貴女に迷惑をかけることだけは避けたくて我慢していたんです。
彼はこんなに貴女を想っていたのに、貴女は理由も告げず彼を突き放した。
何で彼を手放すんですか。
何で彼を捨てるんですか。
どうして、彼を幸せにしてくれないんですか。
昔から両親に言われていた言葉を思い出す。
「お前は本当に欲のない子だね。」
少し寂しそうに私に笑いかける母の顔を、よく、覚えている。
そんなこと、無いんだよ。
だから今私は必死に走ってるわけで。
半乾きの髪の毛に、寝間着の甚平。
そしてそれらにてんで不相応な汚れたスニーカーに裸足のまま足を突っ込んで。
誰が見ても不格好でみっともないような姿のまま外を、人波を駆けている。
はやく、はやく。
もっと、速く彼のもとに行きたい。
アルコールでは誤魔化しきれない彼の哀しみを抱きしめたい。
傷だらけになってしまった彼の心を癒したい。
努力家で我慢性で、でも誰よりも繊細で。
どんなに辛くても笑って誤魔化そうとする愛しい人を、精一杯甘やかしたい。
私は決して無欲なんかじゃない。
だって声を少し聴いただけでこんなにも、脳が埋め尽くされて。
『俺は、……彦星じゃなかったみたい。』
彼の弱い部分に付け込んででも、彼が欲しいと思うんです。
七夕なんて只のイベント。
そんなことしか思っていなかったけど。
もし幼かった日のように、星に願いの成就を乞うならば。
ぴんと空に向かって伸びた竹に、短冊という願いを結ぶなら。
願いは一つだけで、何にするかは決まってる。
(私は彼の、……織姫に、なりたい。)
私は貪欲だから、1年に一度じゃ正直物足りないかもしれない。
だけど、彼に想われるなら何でもいい。
「1年に一度だけ、なんて儚い約束だけどさ。」
「その分幸せって感じられると思うんだよね。」
私は、彼のその言葉を信じたいと思うから。
だから、どうかお星様。
彼を幸せにする権利を、ください。
執筆:2014.08.31
編集:2020.09.01