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 3月も終わろうとしていた頃であっただろうか。


 当時交際というものをしていた相手に言われた言葉が、声が、半年以上たった今でも耳に残っている。



 こう言っては何だが、特別彼のことが好きであった訳ではない。無論、交際していた以上嫌いということでもなかったが。

 恋愛。好き。想い合う。
 恋人。愛。

 その手の話題にとことん疎く、しかし人並みに興味を抱いていたため言い寄ってきたかの男の口説き文句を受けた。それだけのことで。

 そう、それだけであって。
 人として彼を思う気持ちはあれど異性としての魅力を感じることはなく。故に長くは続かなかった。

 


 交際開始から31日目。
 ちょうど、一月(ひとつき)が経とうとしていた、風の冷たい日だった。

 酷く眉間に皺を寄せて男は苦々しげに私を見据えて。

 


 「君ってさ、」

 「向いてないよ、こういうの。」


 そう、言い放ったんだ。



 「 恋愛不適合者 」


 ………ああ、その顔。
 深く深く眉間に皺の寄った、その、苦しそうな顔。

 前にも、見たなあ。


 「駄目なんですね、僕じゃ。」

 「貴女をその気にさせることは、できないんですね。」



 今にも泣き出しそうな、追(せ)り出てくる何かを必死に我慢していた年下の男の子の姿を思い出す度に頭の中が空っぽになったような感覚がする。

 なんて、まさに今、別れを切り出す“元”彼氏の目の前でかつての男のことを考えているような私だから。
 だから駄目なのかな、なんて。

 まるでドラマのワンシーンのように、カツカツと踵を返して立ち去っていく彼の姿がゆっくりと見えた。
 私が選んだその革靴、高かったから捨てないで使ってくれると嬉しいな、って。

 もう豆粒のように小さくなった彼の背には届かないけれど。



 恋愛って何ですか。
 好きになれない、私はどうすればいいんですか。

 そんなことを思い続けて、吐き捨てられた最後の言葉が耳にへばり付いて。
 ずるずる引き摺ったまま、気が付けば年の瀬。ひとりぼっち。


 恋人たちのクリスマスとか、正月は家族団欒とか。
 そんなの知ったこっちゃなくて。

 24日空いてませんかと誘われることはあれどどうせ好きになれない、と思えば気持ちは萎えるばかりだし正月は仕事のスケジュール的に帰省する暇もない。

 それにどうせ帰ったところで「いい年なんだから」「相手は」「お見合いとかどう」と、つらつら小言が待ってるだけだ。
 恋愛不適合な娘で本当にすみません。結婚できないよ、きっと。



 午後6時を回ればベルが鳴る。
 駅前の広場に飾り付けられた大きな大きなクリスマスツリーと、それを囲むような恋人たちや家族連れが視界に流れ込む。

 何年も前、初めて見た時から変わらないイルミネーションに何処かホッとする自分が居た。

 


 「―――さん、手、繋いでいいですか。」


 ちらりちらりと舞う白雪は頬に触れては消えてゆくのに。
 どうして消えない声があるんだろう。


 「みさとさん。」

 どうして。


 「……美里さん?」


 どうして。



 

 「…………え、」


 ふ、と。
 肩に控え目な刺激を感じて反射的に振り向けば、そこに居たのは綺麗な顔をした青年だった。


 (誰、だ……?)

 恐らく180はありそうな長身。すらりとしたその細身には落ち着いたブラウンのコートと白のマフラー。
 きりっとして鋭い目つきをしているけれど、目が合った瞬間に懐っこい笑みがそこに浮かんだからか怖さはない。

 元々はセットしていたと思われる黒の髪の毛は、降り出した雪でぺたんこになっていた。


 「お久しぶりです。」

 青年は懐かしそうに目を細めたものの、私は彼がわからなくて。
 「え、どちら様、ですか?」と問えば一瞬顔が強張った。


 「……覚えてませんか。」
 「すみません。」

 あまり間を置かずにそう返した私に青年はどこか悲しそうで。
 その姿を知っているように思えたけれど、記憶と目の前の人物が一致しなくて。


 「貴女の記憶の片隅くらいには僕も存在出来ていたらいいなって、思ったんです……けど。」
 「……。」
 「………変わらないね、美里さん。」

 


 「みさとさん。」


 数年前からずっと、私の中で消えてくれない声があった。
 その声と、目の前の彼から発せられる自分の名前がひどく似ているように感じるのは気の所為だろうか。

 いや、気の所為ではないのだろう。


 「……しのみや、くん。」

 思わず零れた声に反応するように彼の目が丸くなったから。


 「金髪だった篠宮くんなら、知ってる。」
 「……そうです、金髪だった篠宮です。美里さん。」

 何だか照れ臭そうに笑う青年を、彼だと認識した瞬間ぶわっと、何かが込み上げてきて。


 「………真っ黒。」
 「さすがにもういい大人なので。普通の会社員ですしね。」
 「似合ってたのにな。」

 金の髪を靡かせはにかむ彼が頭を過る。

 

 「だって、美里さんが金髪似合いそうって言ったから。」ぽつり、落とされた言葉に弾かれるように頭が上がった。

 「覚えてないでしょう?」

 俺が雑誌を眺めてて、このモデルかっこよくないですかって聞いたら美里さん、篠宮くんの方が金髪似合いそうだよって。本当に心からそう思っているような、当然だと言うような顔でそう呟いたんですよ。俺、それが嬉しくって。次の日すぐ染めに行っちゃいました。

 昔を思い出すように少しだけ遠い目をして、微笑みながら早口で彼は言う。


 「覚えてるよ。」

 正確には、思い出した。
 犬みたいにきらきらと目を輝かせて、染めたての髪を見せ感想を待つ姿を。

 


 「美里さんのこと、めちゃくちゃ好きでした。」

 真っ直ぐな瞳で声で、気持ちを伝えてくる姿を。


 「気持ちを奪うことは出来なくて、つらかったけど。」

 全身から滲み出ていた、若いながらに精一杯の愛情を。


 「美里さんを好きになったことを後悔してませんよ。」

 


 確かに愛されていたという事実が、今更、痛いほど身に染みる。



 少しばかしの沈黙がふたりの間を制して。

 北風が、中途半端に伸びたわたしの髪を掬うように吹く様を見遣って。
 そして一歩下がって、彼は言う。


 


 「俺、今しあわせですよ。」


 「美里さんは、しあわせですか。」







 数年前、彼とさよならをした駅の近くの陸橋の上。
 次々と通りゆく車を眺めながら、想うは金色だった頃の彼。

 あれ程消えてくれなかった声なのに。

 


 「美里さん、24日空いてませんか。」

 少しずつ、消えていく。

 「駅前のイルミネーション一緒に見たい、です。」

 薄れていく。

 


 「美里さん、手、繋いでいいですか。」


 ついには先程まで一緒にいたはずなのに、彼の声が欠片も思い返せなくなって。

 たったの一度も振り向かずに居なくなってしまった、黒髪の後ろ姿だけが瞼の裏に焼き付いて。

 その彼の左手には、きらりと光るものが見えて。


 じりじりと焦げ付くように、彼の影だけが脳の片隅に立ち尽くす。
 


 今日、声を掛けてきたのは彼の方なのに。
 彼はもう、私を見てはいなかった。

 綺麗な澄んだ双眼で、前をしっかり見据えていて。

 私はそれを望んでいたはずなのに。
 好きになれなくて、苦しめてしまった分前を見てほしいと願っていたはずなのに。


 どうして、その姿を見たくなかった、なんて思うんだろう。




 もしかしたら。

 いや、そんな不確定な可能性の話じゃなくて。
 きっと。確実に、私は。

 


 私は自分でも気づかないほど、微量ずつ、彼に惹かれていたのかもしれない。
 彼の優しさと混じった、甘い甘い毒はいつしか心の中に蓄積されて。

 君が側に居なくなって、初めて、効果を現すんだ。

 

 

 今更ながらに君が惜しい、なんて。


 


 「もう、遅いのにね。」


 冷たい風に融かした想いは、もう誰にも届かない。

  執筆:2015.12.17

  編集:2020.09.01

にがした魚の中毒性について

気付いた頃には息苦しくて。
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